ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

深いもの

常識とは正しい判断をする態度であり、教養はなくても、地面をほとんど離れない観念の世界で働くものです

最も直接、最も身近な現実にしか用のない人々には、常識がすべてを解決しますが、
・・・・・・それを超えたところに目を向けるものには、ほとんど役に立ちません。

それを欠いているために、最上の精神の立派な力が、不毛になる場合があるのは悲しいことです。

独創性があれば

 

常識の欠如を自ら慰めることはできるでしょう。

滑稽なほど実際能力に欠けた天才という場合もあるでしょうから。

本がなかった時代には、精神を養うには、どうしたのでしょうか。
宇宙を見、地上を見たでしょう。

そしてその創作を読み取るうちに、人間は最も感動的な章を書いたのです。


自ら生きるのを見、現在同様人間を、無限の中心として見ました。
その神秘はただ不可解といい得るのみですが、それでも人間と自然の関係には確かなものを感じていました。

信仰もある程度可能であり、それは生き生きとわれわれを思考させるもと、でした。


すべて感覚は思考させます。

読書は精神を養うすばらしい源です。

我々を変え、完成します。

思想を残した大きな精神との無言の静かな対話ができます。

そうはいっても、読書だけでは、健全に強く働く精神が完成されないのは事実です。

魂を培う要素を取り入れるには、目が必要です。

目で見る能力、正しく真実を見る能力を発達させていない人は、不完全な知性しか持たないでしょう。
見る、というのは、ものの関係を自然に見て取ることです。

私はこの短文をあなたに送ります。

この数日間、夢を見て暮らした甘い痛みのゆえに・・・。

秋の夕べに魅入られて、思い出をこんなふうにつづめたのです。
一年のこの季節は、過去に戻るのにいい季節です。
わびしく、もはや帰らぬものを思い出させます。
落ち葉のように、弱い日光の輝きのように、ひっそりとした呟きが魂の中にあります。
(「一八七七年あるいは七八年ごろ ある友への手紙」 /ルドン私自身に/ルドン著/池辺一郎訳/みすず書房


そうか、ルドンの絵にある、あの深みのある色彩の印象は彼の思考の、あるいは思想の深みからにじみ出たものなのだな。

ルドンの文章はまるで詩のようだ。

日本語訳でしか味わえない自分が悲しいけれど、それでもすばらしい、と思う。
詩、それは心を揺らして本来あるべき精神の高みへと連れていってくれる。

心を正常にし、豊かにしてくれるもの。