ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

色心不二の表現

私は色彩で仏教の言葉「色心不二」を表現したい。
いや、表現したい、というのとは違っているかもしれない。
 色だけの作品を描いているうちに、塗っている色に影響されるし、知らないうちに色彩に感情が表現されていたりする。ああ、色彩作品と自分のこういった関係を色心不二(しきしんふに)というんだろうな、と思ったことがあった。それだけだ。
「心と体は別々である、ともいえるし、一体であるともいえる。心と体は互いが有機的に影響しあっているものだ」
簡単に言うと、そんな意味合いの言葉が色心不二である。
私の色彩作品を体、

 

見る人を心に譬えることができる。また、あるいは、私を体、作品が心だ、ともいえる。
色の絵は私が仏教を理解するために必要なのかもしれない。つまりは仏教美術である、という見方もできる。自分が仏になるための教え「仏教」に触発されて描く作品ともいえる。


仏、とはフランスのことではないです。仏、とは、どんな時であっても強く生き、瞬間瞬間に絶え間なく幸せになる、ということである。そして、それを体現している仏様(釈迦)が「いつの、いかなる、どんな時代にあっても自分のように、みんな仏にしてあげたいな」と思って伝えられているところのものが仏教である。全体的には、その肝心であり結論が、南無妙法蓮華経といわれる。

南無妙法蓮華経が説かれると、それ以前の教えはその説明の役になる。そのため、南無妙法蓮華経の素晴らしさがわかれば仏教のすべてが理解できる、と言われる。
仏教は法である。どこの国の、どんな人であっても例外なく幸せになる法則。

信じようと信じまいと関係なくニュートンの法則のようにすべてに働く法則。それゆえ、その法を賛嘆し、表現しようとしたものは全て仏教美術だ、と僕は考える。


仏の相といわれるものを像や絵として表現したものだけが仏教美術、というものじゃない。

それは仏教のある一面だけが表現されているに過ぎないんだ。私には、むしろ仏像なんかは枝葉の表現のように思える。
誰もが、必ず幸せになるための道を説く、それゆえ仏教はすばらしい。
仏教は多くの側面から、もっともっと表現されなければいけないのではないかな、と思う。