ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

ヨーゼフ・ボイスの椅子と脂肪、あるいはその他の作品

物には、その物にしか発することの出来ないイメージがあるもんです。

ヨーゼフ・ボイスの椅子と脂肪の作品写真
印象と言ったら良いのでしょうか? それには個人的に実感と記憶をともなった印象があったりする。

たとえば、思い出の品の現物を見るのと、それを絵にしたものとでは違うんだと思う。

何が違うって、記憶の蘇生具合っていうのかな。思い出す速度が違くなるでしょう?それは。

絵というのは、イメージが翻訳されたもので。

絵で描いたものと現物とはやっぱり違うものなのだし。

つまり、それを別なものに置き換えることなど出来ないのだな、それを言いたいのだろう。と彼の作品画像を見て思った。

そうかもしれない。

そうじゃないのかもしれませんが。

現物を絵に描いたのでは、それは似て非なるもの。

 

散らかった部屋は、

 

散らかった部屋を絵に描いたのでは実感から遠ざかる。現実味と言っても良いのかもしれません。
その実感、あるいは現実味というものが表現の目的ならば、実物を使って構築したものは作品だと出来るのじゃないですか?

 

散らかった部屋、という表現は多くの散らかった「物」で形づくられる。
その光景から受ける印象は、感覚は、雰囲気は、インパクトは・・・
目的がそれなら他に替えがたいのだから、それそのものを作品とすることになる。のか?
たとえば、そこに置いた物を美術館に置けば作品、というのは作品といえない、と思う。

すると、そこに置いた物が自分の作品になるためには、何かが必要なのだろうな。

置くということだけでいうと、物を置くことは彫刻の範疇と言えます。

物の置き方に個性を確認できればいいのかな?

うん、そうなればそれは作品足りえるのじゃないか?

このヨーゼフ・ボイスの椅子と脂肪の作品と同じように。