戦時下に咲くラナちゃんの絵
絵描きにとって、何をどう思うのかは大事なことです。
それで平和について一度考えておきたいんです。
平和を表現するって、どういうことでしょうか?
だいぶ昔、どこかのサイトの記事で見つけた、中東の戦時下に暮らすラナちゃんが描いた絵をモシャったことがありました。
これを描いた1ヵ月後に彼女は亡くなった、といいます。
戦争のあるところで、手をつなぐ場面を描く。
子どものことですから、とくに考えて描いてるわけでないと思う。
それで、
それとは切り離して絵として考えてみたいんです。
これは平和の表現となるのかな?
自分のこととして考えてみようか。
たとえば僕が「平和」を描く、というときに「手をつなぐ2人の人」を描くことが、それを表現し描いたことになるのかな?
なるのかもしれません。
正直わからない。
僕は「絵で表現する」ということを突き詰めていこうとすると、どう描いて良いのか分からなくなります。
僕がこれを模写した2011年頃は、チュニジアの人々が圧制極まるといわれる独裁政権を倒し、さらにはエジプト、さらに・・・と、すごい年になりそうな雰囲気です。
年内に小さなものでも良いから、これについて自分なりの考え、というものを絵にできないものか?と思っています。
そうすると、どうしても「何を描けばいいのだ?」となります。なにもかも分からなくなってくる。
そこで参考に何かないかと、街中へ絵を観に出かけたりするもんです。そこで何やら平和美術展とか〇〇平和絵画展とかいう看板で団体の美術展をやっていたりします。
そこでは、今の政権を反対した新聞の切り抜きだの、軍隊関連の写真を切り貼りしたものや、仏像を描いた絵だのが展示されていて。無理やり平和にこじつけたような作品があったりして。
これのどこが平和なのか?と考えさせられる。何も感動しないんです。
ふーむー。ぜんぜん分からない。
僕はなんだか違うと思うんだなぁ。
これじゃ、平和を騙った平和破壊活動になってしまうのじゃないか?と感じるんです。
こういうのは良くないですよ。
なぜなら平和のための活動っていうのは、絵を描くことではないと思うよ、別じゃないのかな?
そうするにはそれへ導くための交渉が必要になってくるのだし。
逆に言うと絵を描けば平和になるなら、そんな楽なことはないじゃないですか?
絵を描いて展覧会にすれば、世の中平和になるなんて。
ありえない。
なんなら平和でなくても、やる気になれば誰でも絵は描けるんです。ラナちゃんのように。
ただ文化やスポーツは平和の「証」だということは有るでしょう。
それは原則的に平和じゃないと花ひらけないものなんですから。
常時戦争しているところに、どれだけの文化やスポーツが花開いた事実があったでしょうか?
無いと思うんですよね。
たとえ有ったとしても戦火で無くなってしまう。
僕は絵にしても書にしてもスポーツと同じで、政治的な工作とは遠く切り離して表現されるのが良いように思ってるんです。
絵もスポーツも政治に利用されると途端に陳腐に見えるのは僕だけでしょうか。それがどんなに素晴らしくても。
しかし単に絵として、あるいはスポーツとして観れば、それだけで尊いことのように見えてくる。
それは政治の匂いのしないオリンピックを見て、そう感じましたし、あるいは今年(平成30年(2018))の政治利用された平昌オリンピックを見るとなんだかなぁ、と残念に思っちゃう。
スポーツの素晴らしさが消し飛んだようになっちゃって。
それはつまり、平和じゃないってことの証拠じゃないのか?って。
そうなるとやっぱり、平和なんていうのは政治から切り離し、それとは遠く隔てることによってこそ実感できるものじゃないのかな?