ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

色だけの絵

それはまるで書のよう。

描いても描いても底が見えない。
進んでいるのか、戻っているのか、自分の立ち位置さえもハッキリ分からない。

https://www.instagram.com/p/BWdjfnIBnOO/

緑がいっぱい。#abstractart #colorfeel #greencolor #抽象画 #色彩 #抽象芸術 #緑の #透明水彩


私はどうしてか、そういうものに惹かれる、色だけの絵。

30歳過ぎるまで知らなかった世界だ。

それまでは怖かったので遠ざけていた。それを描くときには、

 

不安がよぎる。どう描けば良いのだろう?わからない。考えてもはじまらないし、及ばない。法則性はあるのだけれど、あまりに複雑だ。

 色の世界は距離的感覚と重さのバランス感覚とか主観的好み、対比などの多くの要素が複雑に絡み合う。ただ描き始めて、夢中になり、終わると絵だけある。
ただ雪の上をあるいて、振り向くと足跡がある、そんなことに似ている。

それで、どういうことだろう?と思って、分からないのでまた描くのだ。

色だけの絵。これこそは、純粋な絵であろうと思う。音楽は抽象絵画のよう。とくに歌なしの音だけの音楽を聴くとそう思う。音楽は作れないけれど、おそらくは抽象画のように作られるのだろう。抽象絵画は音楽のようにつくれたら良いのかもしれない。抽象絵画の表現は音楽のように。

 どこに書かれていた文か不明だが「「真の画とは固有色を塗らない人たちのことだ」とはかつてレンブラントドラクロワが論じていたことだ」と僕のメモ帳に。これは抽象から始めよと言っているのと同じだと思う。固有色を見て固有色を塗らないということは自分のフィルターを通して処理する、つまり抽象化する、と考える。

また「画家は自然の色から出発するのではなく、自分のパレットの色から出発するのが良い」とゴッホはいっている。これも同じことだと思うんだ。