山の景色
32歳のころ、僕は山にいた。
そこは宮城県の北の方、県北と言われる。
といっても地図で見ると真ん中くらいに位置しています。
そこで、風景画を描いたんでした。
こういうのは抽象画といわれます。
抽象画といいますと、
元祖は20世紀の初めの頃のカンディンスキーですよ。
厳密に元祖かどうかは分からないようですが、やっぱり元祖かと思います。
僕も相当に影響を受けています。
この絵を見ると、それがハッキリ見えるじゃありませんか。
カンディンスキーがいなければ、間違いなく僕は抽象を理解できなかったでしょうよ。
僕は抽象画のイロハをカンディンスキー先生とクレー先生とヨハネス・イッテン先生から学びました。絵かきなら世界でも知らない人はいないってくらいに天才的な方々です。
ところで抽象は思考の飛躍が必要なんですよね。
抽象というのは今見えている景色を、どう自分は定義づけるのか? ということを言います。
僕がこれまでのように絵を描いているだけでは、そこに行き着くことは出来なかったろうなぁ。
何故かといえば、抽象っていうのは頭の中の出来事で、技術の線上にないんです。
分かりやすく説明いたします。
たとえば、テーブルの上に鉛筆と鉛筆削りとコーヒーカップがあったとしましょう。
それを、これまでの僕なら鉛筆は誰が見ても鉛筆に見えるように、鉛筆削りもコーヒーカップもそんな風に描きます。
これを抽象で表現するなら、
鉛筆は漢数字の一、鉛筆削りは皿、コーヒーカップは国。
そう、僕は定義する。
この「僕は定義する」作業が抽象なんです。
一 皿 国
こう描けば、見方によっては鉛筆と鉛筆削りとコーヒーカップになります。
しかし、だれでもそのように見えるわけじゃない。
だから抽象画といわれます。
抽象画の世界は、まずはこれが始まりで、こうして自分で定義した表現だけを使って何を描くのかっていうことになっていきます。