そもそも運筆の方法は、自分の用意や工夫の中から出るのであります。そして規範として備える古えの人の筆跡に、かならず目を注ぐものです。
そのとき、すこしでも違いがあれば、まるで似ても似つかぬものになってしまうものです。
しかし、もしそのコツを理解すれば、各書体にも通ずることが出来ましょう。
だから努めて細やかに心を尽くし、手はいつでも動かして練習にはげまなければいけません。
もし、運筆が成熟の域に達し、いつでも書法が胸中に浮かぶようになる境地に達した、としよう。
そうなれば筆使いは自然にゆったり動き、気持ちが先に立ち、それに筆は従ってついて来ます。何もこだわる必要もなく筆は心のままに飛翔するでしょう。
それはやっぱり、書の道に達すると、無作為というか、ありのままでいて、しかも法則にかなうようになることと同じでしょう。たとえばあの計理の達人と言われる桑弘羊が経済の未来を予見ましたことがありました。また、牛の解体の名人による包丁が、牛を全体として見なくなったように。
以前、物好きな人がおりましてね、私に書を習いたい、と言うんです。
それで私は大事な点を順番に、ザラッと列挙して示して差し上げました。
その方は何か悟ったこともあったようで、手はよく動くようになりましたし、言葉で覚えた以上に理解し、それをも超えた境地に達したのでした。
これは一例に過ぎません。
こうした謙虚で教え乞うような人は、たとえいまだ全体のコツがわかってなくても、いつか必ず書の真髄に行き着くことでしょう。