ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

素人が書譜5(書譜/孫過庭)

そもそも、悟りの境地のように心の到達するところというのは、たやすく説明し尽くせるものではない。
うまく言語で表現できたとしても、それを文章によっては形容しがたいものである。
それでも、その境地を、ありありと想像できるような、それを髣髴(ほうふつ)とさせるように、大体は文章で表現できよう。

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希(こいねが)わくは、そういった言葉では表現しにくい微妙なニュアンスを汲んで、良いところを学び取ってほしい。
ここで論ずるに欠いて未だ力の及ばない点もあろうが、それは、将来にそれらが正しく補われるだろうことを願っている。
今より、執・使・用・転といった書の基本技法の由来を述べて、それをもってまだ書法を悟らない人を啓発したい。
執とは筆を執る時の深浅をいう、筆管を穂先から長くして持ったり短く持ったりする類がこれである。

 


使とは縦横画の運筆をいう、前に後ろに引く運筆の類がこれである。。
転とは曲がりくねりの運筆をいう、その類がこれである。
用とは一点一画からなる均衡をいう、向勢や背勢の類がこれである。
さらにまたこれらの4種類の法を合わせて、書法の原理に帰一し、多くの技法を編列して、多くの書の妙趣を混ぜ合わせよう。
そして前賢のいまだ及ばざる点を挙げて、伝統的書法を後学者のためにひらき、その根源をきわめ、その枝派を分析してみよう。
文章は簡潔にし道理はゆたかに、明瞭で心は通じ、読めば書法が明らかになり、筆を下せば迷いのために滞ることがないようにすることを尊ぶ。
それゆえ、納得がいかないようなおかしな説は、つまびらかにするところではないため取り上げない。

しかも今の述べたことというのは、務めて学ぶものの助けとなるようにしている。
ただ王羲之の書だけは、幾世にも称揚し習うものも多い。まことに拠りどころとしての師匠とできようし、進んで目標として立てるべきものである。
これはただ単に古法に合致して、かつ現代に通ずるというだけではない。それはすなわち情緒は深く和らぎ調っているのだ。
彼の書は日増しに広く双鉤填墨され、年経つごとに研究者が増えた。
先後の著名の書跡は多く散失したりする中にあって、世を経て独り繁盛するのは、その効果ではないか!