最近分かったことがある。
それは、自分で書く文字は少なくとも覚えていなければならぬ、ということだ。
覚えていない文字は、何かを頼りにすれば書けなくもないが、何かを頼りにしている分だけ頼りない文字になる。いわば乳飲み子の文字になってしまうようだ。
私はできたら、どんな文字でも成人の文字を書けるようにしたいと思う。
思うが、いったい、そんな日が来るものだろうか?
それでも、
そんな日を夢見るなら自分の書く文字は、少なくとも覚えている文字を増やすことから始めなくてはな、と思う。
これは絶対だ。
良い書にするには必要不可欠なように思う。
しかも、日ごろから慣れ親しんでいるようでなければいけない、と思う。
私は西という文字を、ほぼ毎日書いてみた。
文字の歴史にある手本に基づいて楷行草の三つの変化を覚えて空で書けるようになって、それが自分の中でごく当たり前になるまでにどのくらいかかるのか?
実験してみた。
楷書はとくに練習しなかった。
何を見なくても書けるし、バランスもそれほど難しくない。いや、厳密に言えば楷書が一番難しいか?
行書、草書は変化が激しい。
そしてその境があいまいだ。
手持ちの字典を見ると草書と行書の変化だけで五種類くらいある。それら五種類を気分しだいで変えて書く、またはひとつの文章に西が何度も出てくるようなら、すべて違った風に変化させて書けるようにする。こうなるまでに、どれほどの時間が必要か知っておきたいと思う。
はじめのうちは、手本を見ながら何度も書いて、手本の形を覚えたら、手本を見ないで手本に近いように書けるようにして、さらに自分の中でごくあたりまえの文字だと感じるようになるまでやってみた。
私の場合、たった一文字に三ヶ月かかった。
それも毎日毎日、日に何回となく書いて、こんなにかかる。
そうか、こんなにかかるのか。