ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

視覚の種族

僕は自分を不便な奴だな、とよく思う。
視覚の種族ですから見ること、観察することに特化した構造になっておりまして。色々と大変です。
たとえば文字を読もうとすると、先ずは絵に見える。であるからして文章のごときは活字が好ましい、と思う。

活字なら何でも良いか、というとそうではなくて、活字でも小説に多く使われるような書体でなくては駄目なのです。

そうでないと、書体の形や雰囲気に気を取られて内容が分からなくなっちまうのです。たとえば手書き文字は読むのに骨が折れますね。そういうのは絵として見てしまうので意味が後になりますから。
視覚の種族は人と対話するのが、まぁ大変です。苦手なのです。

何故かといえば、どういうわけか人の声は音楽のように耳にこだまするし、視覚優先なので顔を見ると表情観察に意識が集中します。

そうなると話してる場合じゃなくなります。人の顔っていうのは良く出来ていて、眺めているだけでも楽しいものなんですから。
声ですが、自分のツボにはまる心地良い声なら聞き惚れてしまう。

人の声には音楽に劣らぬ心地よさがある。

 

感情が入る声はジャズに似た音楽のように感じます。意味のあるものとして感じ取れない。その間には話す表情に目が奪われてますから、脳はそれらの情報解析で手一杯になる。

だから何を話しされても即答が出来ないわけです。即答できるものはごく簡単な話しだけになる。
視覚族は人との対話において内容を理解して反応するまで、結構な時間を必要とする。なんと言ったか思い出して理解した頃には数時間たってしまうのです。ひどいときには次の日ということも。
視覚的な感覚は聴覚にも影響しているのだと思います。

器官が近いからでしょうか?たとえば誰かと話していて、というより先ず聞いていて、この人の声は暖かだ、とか冷たいなどと感じます。それで頭がいっぱいになります。

相手が話し終わると、良い声なら良かったなーと思って、それで終了です。内容なんか分からないのです。

視覚の種族っていうのは困った民族です。