ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

書く効能

「日記をつけるのは、詩を書くのに似て、一種の告白行為であることが多い。そして告白というものは、誰かそれを聴いてくれる者がいなければ、なんの意味も持たないものである」とドナルド・キーンは言っている。(百代の過客/金関寿夫訳)

それは告白行為であるから聴いてくれる人が必要だ、と、そうかもしれませんが、しかし、だからなんの意味もないということにはならないと思うんです。

 

僕は、昔うつに罹って大変な時がありました。

それはひとつのことが原因じゃなくて、いくつものことが重なって精神的に参ってくるんです。それと体とのバランスが取れなくなっていくと、遅かれ早かれうつになってしまう。誰だってなってしまう可能性があるもんです。

そうなると、体は動くことを拒否する。

手は震えてくるから、

 

満足に文字も書けない。

うまく話すことも出来ないし、夜も眠れなくなってくる。

ちょっとした音にもビックリした飛び上がるんです。

春の草木萌ゆる季節になると、もう頭が重くなって寝そべっているしか出来なくなって。

もう、大変でした。

それで、病院に行けば抗うつ薬を渡されて、飲んでみれば頭がクルクルパーになっちまう。

なんだかんだで20年かかったろうか?

今年から絶好調。いや、去年もそう思わなかったか?一昨年も、その前も。

しかし後から振り返れば絶好調とは程遠い状態だったじゃないか。

まだ分からないぞ。

そうは言っても調子が良いのは事実かと思う。

今春が来ても、頭が重くなるなんてことは無くなったのだし。

 

この20年もの間、だいぶ鬱と格闘した。

その中で、一番功を奏したのは客観的に自分を把握する、ということでした。

今、自分がどんな状態か?

それを先ずは紙に、事細かに書き出していくんです。

どんな小さなことでもです。自分で気づけることはすべて。

特に考えていることは重要で、何から何まで書き出すことが必要だ。

それで、次にはその書きだしたことで、ネガティブなことについて一つ一つ反論していくのです。

というのも考え方が正常じゃないから鬱になるのです。だから反論する必要がある。

しかし当時の僕は「正常な考え方じゃない」というのが納得できなかったのでした。それでも、やってみると効果抜群であるので、しぶしぶ納得せざるを得ませんでした。

これを認知療法と言うのだそうです。

 

反論すると言ってもどのようにするかというと例えば。

自分は今のままじゃ、近所の猫のタマにも劣る。と書き出したら、その隣にいや、そんな事はないぞ!あのニャンコは単に日向ぼっこが好きなだけで、僕は病気で寝ているわけだから、同じ寝てるんでも全く違うじゃないか。とこんな具合です。

 

こんなことを頭が空っぽになるまでやるのと、体のバランスを取るための運動を合わせてやっていくうちに、僕の場合だんだんと改善の兆しが見えてきたのでした。

つまり、頭の中を全部吐き出して分析対処することによって、鬱に対抗できることを僕は学んだのです。

 

それ以来僕は、常にメモ帳を持ち歩いて、出来る限り頭の中は空っぽにして、頭の中は開けばメモ帳にある、というようにしています。