ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

書をものするに

書は考えて書いたから良くなった、それは無いようです。
日ごろ文字を書いていて思うのはアスリートと同じで、書っていうのは体にしみこんだもので勝負する芸術のようだ、ということです。
ああ、なんて高い山を登ってるんだ?登り始めて三十数年にもなるっていうのに、まだ頂上すら霞んでよく見えないじゃないか、とよく思う。
しかも、フル装備で準備万端にしてピクニック気分で山を登るのとはまったく違っています。

裸で登っている感じなんです。

しかも、

 

その山は岩だらけの山で、爪を引っ掛けないと登れない。爪がはがれそうで、とてもしんどい。それである時、うまくいかないな、登れない、と思う瞬間が訪れる。

それを解消するために、山用の靴が必要だ、とかロープが必要だとか思いつき、その場所に居ながら必要な準備と技術を整えようとするんです。そして整い次第にまた登り始める。
だから今、何をしているのか?というのが大切なのかもしれません。それが出来たら、次、それがやれたら次、というふうに前進するしか道がないように思われます。
うまくいかない時「これを解消するために今、何かしているか?」と自分に問う。その時にすぐに何かしら始めて準備したいと考える。
文字は書きながら考えても仕方ないので、本番であっても気楽にサラサラッと書いてしまう方が良いようです。それでひどいものになるなら、その程度の実力なんだ。
 孫過庭の書譜というものの中に池水尽墨といって、張芝という人の書を、王羲之にして評したくだりがあって「あの成熟な書は、池の水を墨汁にして練習をして得た、というほどのものである」と言っています。私はこれを読んで目からうろこでした。
「そうか、池の水を墨にして、それが尽きるほどしなければ、ものになるものではないのだな」と思って覚悟した。さらに王羲之は「自分もそれくらいやればもしかしたら追いつけるかもしれない」と。王羲之でそれなら、俺はどれほど練習しなきゃいけないんだよ!