宗教と芸術
宗教と芸術は精神的に似たようなところがあるもので。
宗教の話もしないと絵の話も書の話も深くなっていけませんよね。
まぁ、絵を描くことや、書っていうのは宗教的な仕事ですからね。
僕は熱心な創価学会の信者なんです。
朝な夕な南無妙法蓮華経とお題目を唱えます。自分ひとりきりですが、それはたとえば琳派の芸術村を彷彿とさせるものがありあますよ。
それで、唱えたそばから体がシャキンとして、気力充満してくる。
混沌としていた思考も、散らかった部屋が整理整頓されたようになって。なぜだか気分もワクワクしてしまう。ああ、なんて凄いんだ、お題目は、と思う。
これじゃ、そのうち幸せで一杯になっちゃうぞ。だから僕はあの人に「南無妙法蓮華経によって必ず、必ず一生のうちに幸せになりますよ」と言った。「世界中のどんな宗教をしたところで、結局幸せになんか成れないんだ。それどころか不幸になってしまう。創価学会しか無いのですよ」と。そして、また言った側から功徳がどこからともなくいっぱい降ってくる、やってくる。
日蓮大聖人は「誰人にてもおわせ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なり」と。
また「一生の内に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれど一年の中には必ず之を納む」と。また「一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」と。
信仰は今抱える困難を越える力だ。その原動力となるものです。
正しい信仰はエンジンが大きくて、いかなる困難にも立ち向かえる力がある。
正しい、とは誰でも必ず幸せになる、ということだ。
そして、日々そうなるだろうことが実感できるようでなくちゃね。
創価学会は初代の牧口先生、二代の戸田先生、そして三代の池田先生を師として日蓮大聖人を御本仏とあおぎ、南無妙法蓮華経を世界へ広める団体です。池田先生は「偉大なものを偉大であると語り、広く伝える」と、それを広宣流布と言う。それは日蓮大聖人の御遺命でありますし、釈迦・多宝・十方の諸仏の願いでもあります。
あらゆる仏様を仏にし、あらゆる神々を神ならしめた種は南無妙法蓮華経といわれる。
それは宇宙根源の力であると。
だから、それがひとたび体に充満すれば、ほっといても勝手に幸せになってしまう。
僕も、日々お題目を唱えていると、あぁ確かに、確かに、と思うのでした。
仏法は紐解けば、仏教界だけにしか通じない話ではなくて、世界中のあらゆる宗教の話を内蔵しています。
ですからこれほどの規模で南無妙法蓮華経を全世界に広めたのは創価学会だけだ、とその一事実をもって宗教界の王者と言って良いものです。
仏法は常に結論が先にあります。
仏様が苦労して得た答えが先に話される。それは数学的だな、と思う。今、必ず幸せになる、という公式を教えてやるぞ、早速それを使って人生の悩みを解決しなさい、との思いなのかもしれません。
池田先生は自分の精神が形作られる若い大切な頃、その草も生えぬような貧しく荒れた大地を耕してくださった人だ。未踏の森の、渇れること無きあふれ出す湧き水のごとき言葉によって、乾ききったその土を何度潤してくださったことだろう?
いつか僕は、少しづつでもその恩に報える自分に成りたい。
芸術と宗教は似ている。宗教によって生命が蘇生しゆく姿は、何度見ても神々しく芸術的であるし、芸術が生まれる過程は宗教的でもある。
優れた宗教は人を必ず幸せにする力がある。
優れた芸術も人の心を、その美しき豊かな雨で潤してくれます。それは画家の精神の内奥から湧き出てくるものなのだろう。
昔から芸術は宗教と密接に結びついてきた。
きっかけはさまざまかもしれないが、宗教を賛嘆する仕事が芸術にはありました。その事から、芸術は宗教によって命を吹き込まれ昇華するのだ、思想によって花開くものなのだ、と思うようになりました。
思想や宗教は芸術に深さを与えます。それは、信念、とも言えます。誰人も、どんな形であれ持っているものです。私の考えでは、偉大な芸術家は皆宗教的です。宗教的でなければ深い表現には至らない、至れない、と思う。