ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

哲学の必要性

 色彩の絵には哲学が必要だ、と思う。そのことの重要性を私はヨハネス・イッテン先生に教えていただきました。あるいは思想といってもいい。

先生の著書からは彼の精神の強力な思想によって初めから終わりまで貫かれているのを感じずにはいられない。その時、あぁ自分にも必要だ、と感じたのです。

色彩は色が混じってゆくと、そこに無限の広がりというものを誰しも感じるはずです。あるいは混沌とも取れる様相にも見えます。

それを見るに耐えるものにしてゆくには法が必要になる。

法は全てに作用します。何も逃れ得ないものが法です。法は精神の中では哲学とも思想ともいえます。

哲学というのは何ですか?哲学とは世界や人間についての知恵や原理を探究することです。たとえば、ひとつの花を見たとしましょう。この花が上を向いていれば、それは、その花の種にとってのひとつの哲学にはならないでしょうか? 私には十分哲学的であると思うのですが。
そういうこと、いろんなことを通して自分が得たもの、その哲学を羅針盤にしながら、あらゆる色彩を使って描いていく必要があります。色彩の絵というのはそうあるべきだと思うんです。そうでないと、描きながら混乱、困惑、支離滅裂になってゆきます。

 

 一般的に淡い黄色やパステルカラーといった幸せをイメージさせる色を使っても、混乱の中で描いたものは混乱を表現します。色彩の絵には迷いがあってはなりません。

色の絵は表面的に描いていくことも、精神的に深い部分で描いていくこともできます。
表面的に描くというのは、とりあえず色で遊んでみたような絵を指します。精神的に深い部分で描くには哲学的感覚が必要になります。それは特に心の、あるいは生命に根ざした哲学がどうしても必要です。

私の考えでは、心の有りようを解き明かした生命哲学、その究極は仏法です。中でも法華経になります。そこに仏法全ての結論があると釈迦が言われるから、法華経に立脚しなければ他は理解出来ないようです。

日蓮大聖人は「仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をば知るべきか」と。

仏とは釈迦と、天台大師、伝教大師日蓮大聖人の4人です。その他にはいないと言われています。

私の中には運良く、その仏法がベースとして存在しています。


色彩の絵の鼓動は、その人が持つ哲学から生まれます。
それは、色彩の絵に命を吹き込む。色の絵に命を宿らせるために哲学が必要だ、と思う。
人は顔色を見て健康的か病的か判断することがあります。色彩の絵にも同じようなことが言えます。しかし、もっと微妙かもしれません。というのも、絵の場合、たとえ健康的をイメージさせる色で絵を描いたとしても、病的な精神が描くと健康的な絵にならない。それを描いている当人の精神状態がより表現されるのです。
たとえば黄色は一般的に放射する感じを与える色だ。そのために光をイメージさせます。
黄色を多く使った画家にゴッホがいますが、ゴッホの絵はどうですか?光を思わす黄色でしょうか?私にはゴッホの色彩の多くは光というよりは病的に感じます。しかし、それとは別に彼の色彩感覚の素晴らしさは他の追随を許さないものがある。彼は自在に色彩を扱えるようになるまでに、どれ程研究したのだろう。彼を思うとき、自分にはもっと研鑽が必要だ、と知らされる。