冬は明るい黄色が見たくなる
おはようござりんこ。
寒くて身も、財布も寒いシュンです。
僕は色を塗る仕事をしています。お金にはなりませんけどね、仕事なんです。
色彩絵画は抽象の極致にあると思うんです。
色だけを塗るようになるには、たいていの絵を描いて飽きてその先にある、と言って良いのだと思います。かといって僕が絵を描き飽きてるわけじゃなんですが、まぁ、例えですね。
いろいろ風景だの、人物だの描いていますと、色を塗るわけです、色を乗せるとも言いますが。
風景だと昼間は、空を青く塗りますね。地面は、土なら茶色だったりします。
森があれば、たいてい緑になるものです。
何度も、風景を描いていますと、そのうち、家だの、波だの、風だの、ありますが同じような色しか使ってないんじゃないのですか?とふと思う。
つまり、何百枚とある風景画の色彩を要約すれば、青と茶と緑でぬった紙は風景を表現している、となりませんか?
これがたとえば数学ですと、木が一本あるとします。数えれば1です。同じ場所に、同じ葉の枚数で、同じ育ち方をするのはこれだけだ、と僕は決めた。すると、同じ種類の木がその周辺に何百本あろうと、すべて1と置き換えることができます。これが抽象化するってことなんだと僕は認識しています、違うかもしれませんが。
同じように風景画を色で抽象化すると青と茶と緑で良いとなるわけれす。問題はそこからです。
青と茶と緑で塗られていれば、それは誰にとっても空と土と森の風景と思うのでしょうか?
そんなわけないんです。空も青だけでは空とも海とその他青いもの全般ともいうことができます。だから、色だけの絵は描いた本人はわかるけど、それを見る人はわからないものになる。
そこが、肝です。
描いた本人しかわからない世界がある。
見る人がどう感じるかわからない世界がある。
つまり、この落差を楽しむこと、その発見に寄与することが色彩作品の使命なんだろうなぁ。色彩から成る絵は、まさに、そこに特化した表現世界ということができます。
だから、僕が何をイメージしたかを見る人に押し付けることはできませんし、鑑賞者がどう感じるかは自由なんです。色彩作品をネタにして、そうした落差を話してみることによって、互いの感受性の違いを確認できるかもしれません。あぁ、これをこの人はこう感じるんだ、なんてね。
色彩作品に限らず絵画の必要性は本来、もしかしたら、そういうところにあるのかもしれません。
色彩は、各色に対して人それぞれ持っているイメージというか印象が違っているものです。だいたいは同じように感じるにしても、微妙なところで感じ方が違うはずです。
だから、僕が光をイメージして塗った黄色でも、ちょっとした配色の違いによって、見る人はそう感じないのだ。と、思う。