ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

素人が書譜4(書譜/孫過庭)

道を体得した人は真理を悟って言葉を忘れ、その要訣を口にすることは、まれである。
爪立つように背伸びして学ぼうとする人は、先賢の風趣を敬い慕って、その奥義を説明するが、説明するといえどもなお疎雑である。

f:id:shunarts:20171212205518g:plain


いたずらにその工夫の筋道を組み立て論ずるだけで、書の真髄を詳しく解きあかしていない。
平凡でとりえもなく、おろかで道理に暗くありながら、それに気づかず、自分の理解できることだけを述べる。

 

願わくば、先賢の模範とすべき風格や掟ともいえる書法を世に広めて、将来の物事を正しく見分ける器量ある人を導きたい
繁雑な説明を除き氾濫するいい加減な意見を糺(ただ)せるなら、名跡を鑑賞して、その書の心を明らかにすることができる人も出てくるであろう。世間には「筆陣図」の7行の著作がある。
その中に執筆の図が3種類描かれている。
その図は正確ではないし、解説も明瞭ではない。
最近それがあちこちに流布しているのを見るが、もしかすると、これは王羲之が作ったものかもしれない。

それが未だ本物かどうか分からないけれど、とはいえ、それでもなお子供を啓発するぐらいの力がある。
これはすでに世間にありふれたものとなっているので、ここでは扱わない。
唐以前の諸家の書の論評にいたっては、その多くは、飾られた言葉ばかりで表面のみ華やかなものだけである。
それらは一見すると整っているようで、よく見てみるとあやふやなものばかりである。
現在の評論書も、また同じようなものなので取りあげない。

ところで八分(はっぷん)に優れたといわれる師宜官(しぎかん)という高名な人も、いたずらに歴史書に顕彰され、魏の曹操に畏敬されたという邯鄲淳(かんたんじゅん)という人は八体ことごとく巧みであったが、その立派な書法も、空しく書物に載って有名なだけである。
時代的に崔瑗(さいえん)・杜度(とど)以来、蕭(しょう)・羊欣(ようきん)にいたるまでの400年という長い間にも、有名な書家がたくさん出た。その中には評判も変わらず、亡き後には業績がさらに顕著になる人もいる。
あるいは人の名声に乗っかって有名になり生前に価値を増したようでも、死後には評判を落とす人がいる。それに限らず、多くの書は虫食いなどして伝はらないから、秘蔵の書を探すけれど、ほとんど尽きてしまって見つからない。
たまたま、大事に秘蔵された書に出会えても、めったにお披露目がないため、優劣は入り乱れていてハッキリせず、ほとんどその序列をつけ難い。
その当代に有名になるほどの書は、墨跡の見存するものは、ことさら品評せずとも、おのずから優劣を示すだろう。

文字の作られたのは、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる黄帝の世。(紀元前2510年~紀元前2448年)にはじまり、八種類の書体のおこるのは、秦の始皇帝(秦王として紀元前246年に即位し前221年には史上初めて中国を統一)よりはじまる。文字の歴史は長く、その用途は広範である。
ただ今と昔とでは同じではなく、質朴から華美へと、へだたりがある。
これらはすでに習う書体ではないので、またまたこれを略す。

また、竜書・蛇書・雲書・垂露篆のようなものや、亀書・鶴頭書・花書・英芝書といった装飾書体、雑体書のような類がある。
これらは、竜や蛇、雲といった対象となるものの姿を、さっと写し取ったり、あるいは年々に起きた吉瑞、祥瑞を描いたようなものである。
その技巧は絵画のようで、その工夫は書の条件に欠けるものがある。
それは書の法則・規範とは違うものであるから、つまびらかに論ずるところではない。

世間に伝わっている王羲之が子の王献之に与えたとされる「筆勢論」10章は、文は俗でいやしく、理論は疎雑で、意味が通じないところがあり言語表現も稚拙である。
その内容をつまびらかにみてみれば、けっして王羲之の著作ではない。
かつ王羲之は重要な地位にあり、その才能も高く、風格は清く文章も優雅に、名声も未だ滅びず、墨跡もまだ現存している。
王羲之が手紙を一書したためるに一事を述べていく様子をみると、急ぎの際であっても古人の言説といった故実に根拠を持たせている。
それなのに、このような書法を献之に残すものだろうか。道理が通っていながら、文章は俗で稚拙ということがあろうか。
また、この中で王羲之は「張芝と一緒に学んだ」と。
これが更にデタラメを明らかにしている。もし漢末の張芝を指すなら、時代は全く合っていない。
もしか晋の人の同姓同名があるとしても、史伝に名が無いからおかしい。
先達の教えでもないし典拠もなければ、こういった筆勢論なるものは、よろしく棄ててしまおう。