ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

巨人マックス

フロッタージュっていうのがありまして。

フロッタージュの絵

 マックス・エルンストは絵の一部にフロッタージュを使っていますよね。【木(の板)、石、硬貨など、表面がでこぼこした物の上に紙を置き、例えば、鉛筆でこすると、

 

その表面のでこぼこが模様となって、紙に写し取られる。

このような技法およびこれにより制作された作品をフロッタージュと呼ぶ。フロッタージュの作品は、デカルコマニーの作品(デカルコマニーとは例えば、紙を半分に折り片面に絵の具を塗りつけて折りたたむと、絵の具がもう片面に転写される。そういった方法のこと。と同様に、制作者のコントロールが部分的には効かず、また、見る者により、何に見えるかが、異なるという可能性がある。

特に、マックス・エルンストが好んで用いた。(ウィキペディアより)】

福島の美術館だったと思いました。

マックス・エルンストの作品を見たときには「なるほどね、フロッタージュって、こんな感じで使うのか」と勉強になりました。

それで一時期、フロッタージュばかりやって遊んだことがあります。

上の絵は僕がやったフロッタージュです。

けれど、遊んだだけで、これをどのように作品に生かしたら良いのだろうかと考えても何も思い浮かびませんでした。

いまでは自由自在ですよ、フロッタージュを作品に応用するなら任せてくれ!

と言いたいところだけど、感覚は遊んでた当初とさほど変わっておらず、お話になりません。

なんとかものにしたいなぁ。思考の過程がよく掴めないのだ。わからない。
 いつでしたか宮城県の美術館で「ピカソと二〇世紀美術の巨匠たち」展を観てきたんですが、マックス・エルンストの「パリの春」と「月に向かってバッタが歌う」という二つの絵がありました。

あらためてマックス・エルンストは凄いなぁと思いました。

シュルレアリスムへの昇華具合もダリよりエルンストが一歩深いように思う。

シュルレアリスムの時代は世界大戦が始まる頃に始まり、終戦の頃に収束する。

そこから推測するに不幸な時代の逃げ場所がシュルレアリスムという表現なのかもしれない、と。

これが僕のシュルレアリスムへの美術史観。

だけど、マックス・エルンストの作品を見ると、そこから一つ抜け出した表現に思える。

抜け出して別次元に変化したように見えるんだ。

いつか、自分の作品にもシュルレアリスムを取り入れたい、ぜひ。