ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

日常色化

今年は大きな絵を2枚描いたシュンです、チョリーッス。

それを新制作展という東京で開催される団体の公募展に出品したんですがね、落選したので陳列はされませんでした。

悲しいので、ブログで発表したい。

日常色化

2枚のうちの一枚がこれです。

いかがでしょうか?忌憚ないご感想お待ちしております。

 

この絵は150号(227×182㎝)の大きさでして、自分では気に入っているのですが審査員には気に入っていただけなかったようだ。

淡い水彩画のようにアクリルで描いたのでした、それが良くなかったか?

わからない。

 

ところで、皆さんもご存知だと思いますが絵には大きく二種類あるのです。

ひとつは考えて描く絵。ひとつは考えないで描く絵。

それらを別な視点から言うと「考えれば理解できる絵」と「考えても理解が及ばない絵」だ。

どちらが良くて、どちらが悪いということではありません。

これは人間の脳のつくりに由来します。

ひとりの人間には二つの脳、二つの心が同居する。

脳は二つある。心も二つある。「右脳」と「左脳」。そしてその故に「寡黙な心」と「おしゃべりな心」があるのです。

一つの心に二つの性格があるのじゃなく、まったく別物です。

二つの脳にそれぞれ心があるんです。

どちらかが常に主導権を握っていて、片方が活動しているときには、もう片方は眠っている感じです。その為に二つ心があると自覚できないのが一般的なようです。

世のほとんどの方は左脳が幅を利かせていると言われてます。これは社会がそれを要求するからかもしれません。

 

 

僕は左利きということもあって、何もかも右脳的です。だから寡黙になることが多い。

それで考えても理解が及ばない表現にとても魅力を感じます。

 

とはいえ「理解が及ばない」のと「理解が出来ない」というのは同じではありません。

理解が及ばないのは知識不足ということもあります。

飛行機が良い例です。どういうわけで飛ぶのかパッと見ただけでは分からない。

 

考えて描く絵というのは理解を深める時には、とても役に立ちます。

何かの図解などがそれです。

しかし何かしら表現するという時には何も考えず取り組みたいと思います。

 

僕は10年くらい前から絵描きになろうとアルバイトしながら絵を描いているんす。

しかし、絵で身を立てるように持っていくことも出来ず、ここにきて、もうジリ貧です。

ここにきて、というか初めからジリ貧だったけど。

お金もないし、絵の具も額も買えない、絵を売る能力なんてそもそもないし、どうしようもなくなってきました。

絵で身を立てるぐらい何とかなる、ぐらいに考えていましたが、ここまで能力が低かったなんて。

それで来年からは心機一転、10年くらいサラリーマンで働こうと考えています。

もう50歳になるかならないかだし、ちゃんと勤まるかどうか分かりませんがね。

絵は極端に描けなくなるかもしれませんが、致し方ありません。

これまでは、右脳主導で問題ありませんでしたが来年からはそうも言ってられないでしょうなぁ。

左脳主導で右脳は監督になっていただきましょうか。