日記としての色ぬり絵作品
「世界中どんな国でも、人は日記をつける。(中略)
だが文句なしにすぐれた文学作品としての日記もある。そしてこのことは、日本においては一千年以上ものあいだ正しかった」
「日記をつけることは、言ってみれば時間を温存することである。歴史家にとってはなんの重要性もないような日々を、忘却の淵から救い上げることである」ドナルド・キーン(金関寿夫訳(百代の過客)
僕が小学生のころには夏休みになると宿題が沢山だされて、その中の一つに絵日記を描くというものがあった。
結局、夏休みが終わるころになって、放っておいた宿題を慌ててやることになるのが常でした。
そこで絵日記は、
日記だから毎日変わってなくちゃいけない。
それだから後からやろうとすると非常に困難になってくる。しかも絵も描かなくちゃならないし、それで苦しかったのを覚えています。
僕の色ぬり絵作品は、文学作品ではないし、絵日記でもないけれど、それは性格的に日記と同じものです。
ある日、ある時の気分を色に置き換えていく作業です。
それはつまり、すぐに消えて無くなってしまう瞬間的な感情を、忘却の淵から救い上げることになるんだろうと思う。
「日記文学の伝統という一筋の糸が、円仁の時代から幕末まで、いや、今日までも、断ち切れることなくつながっている。私が知る限り、世界中他のどのような国の文学にも、これと同じ現象を見出すことは不可能である。」ドナルド・キーン(金関寿夫訳(百代の過客)
ドナルド・キーンの「百代の過客」を読んでいるうちに僕の色ぬり絵作品は、そのうち何かしら文章を別に示して絵日記のような表現にしていくと良いのかもしれん、と思いだしてきた。
そうなってくれば、日本の日記文学の伝統によって立つ表現だ。あるいは、日本の日記文学の伝統に影響されて生まれた表現だ、と言っても良いものにしていけるのじゃないかな。