ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

素人が書譜3(書譜/孫過庭)

この時代を過ぎ、さらに過ぎるほどに、書の真髄に至る道はいよいよ衰微してきた。
そして、書を学ぶ人もどこからか疑わしい方法論を聞いては、それを鵜呑みにし人に伝え、枝葉のようなやり方を知りえては、それをやってみたり、過去の伝統と現在の書法とが隔絶したがゆえに、質問に答えられる人もいなくなってしまった。
たとえ精通する人があったとしても、深く秘密にしておくことだろう。

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そうして終に、書学者をして成すすべ無く茫然として、肝心なところを知ることが出来ず、完成された美しい書を仰ぎ見るだけで、それが生まれる理由を悟ることが出来なくなってしまったのだ。

あるいは、文字の結構や布置について長年研究するも、書の法則からは、なお遠く及ばず、楷書を書いてみるが、その法則を悟らず、草書を習っては、いよいよ迷いの淵に落ちてゆく。

 

たとえ、少しでも草書を理解し、だいたい楷書の法則を体得したといっても、ねじけていこじな書に溺れていて、自ら書の真髄に至る道を絶っている。

どうして、心と手の調和の行き着くところは、誰であっても同じであり、 水源が同じくし、それが小川や大河になるがごとく、流派が違うというだけであり、「転用の術」といわれる筆を自在に扱う技術は、樹木の幹から枝が四方八方に枝分かれするのと同じで、ひとつが分かれば、他はそれに通じているということを知らないのだろう?

ところで、小役人が実務的な時に適うのは、行書が良い。
碑や板などの題字は楷書が一番良い。
草書のみ学んで、そこに楷書を兼ねていなければ、端正な草書とするには危うい。
楷書のみ学んで、草書に通じなければ、手紙を書くことができない。

楷書は点と画をもって形の本質となし、使転のような曲線的表現に気持ちを乗せる。
草書は点画で気持ちを表現し、使転のリズムを形の本質とする。

だから、草書は使転の道理にそむけば字として成り立たない。
草書は一つや二つ点画がなくても大体文章を表現できる。

楷書草書は形の本質と気持ちの表現に相反するとはいえ、相互に関係し合っているのだ。

だからこそまた、大篆や小篆に精通し、八分(はっぷん)といわれる隷書の中のもっとも典型的なスタイルを学び、章草を好んで、広く研究せよ。

もし、少しでも行き届かぬところがあると、胡越(古代中国の、北方の胡の国と南方の越の国。互いに遠く離れている。疎遠であることをたとえていう語)のように書の真髄に近づくどころか、遠く離れていってしまう。

鍾繇の楷書の絶妙さ、張芝の草書の霊妙さに至っては、それこそ一書体に専心し精進してこそ、その絶倫にたどり着けるのだ。
張芝は草書の達人であるが、その点画には直線的な楷書の要素がある。
鍾繇は草書の達人ではないけれど、使転のリズムは縦横無尽に駆け巡っている。

鍾繇、張芝以降になると、楷書と草書を兼ねて表現できる人がいないのは、彼らに遠く及ばないからであり、彼らのようにひたむきに専心し精進することが無いからである。

篆・楷・草・章草の書体は、技術的に変化多様であるとはいえ、美しく表現しようとするなら、それぞれに理にかなったコツがある。

篆書はしなやかさ、なめらかさを尊び、楷書は緻密に、端端にまで心がいきとどくことを欲求し、草書は流麗にしてのびのびとなることを重んじ、章草は、引き締まった簡単さが表現されることだ。

その上で、凛とした姿とするには、人間性や、精神性をもってそれを成し、温もりのあるものにするには心の美しい潤いをもってし、躍動させるには、強い力を内に秘め、なごやかさをもたせるには、しとやかで優雅な気分をもってする。

ゆえに、書が自分の感情と生まれつきの性質を表現し、その哀楽をも形に表れるのである。
季節の移り変わりは、昔から変わることが無いけれど、青年が老人になってしまうことからすると、100年といえども一瞬のことだ。
ああ!一生が短いからといって書の門を叩かなければ、その深い境地を窺い知ることもできないではないか。

またある時、書をするも、乖の時があり、合の時もある。
気持ちにそむくときは、調子が悪く、それを(乖(かい)といい、気持ちが合う時は調子が良い時で、それを(合(ごう)という。
調子の良いときには流れるように美しくいくし、調子の悪いときには粗雑になる。

概略してその理由を言えば、それぞれに五つある。
楽しい気分で仕事が暇なときが、1番に調子の良いときで、1番目の合である。
感がはたらいて、すぐ理解できる時は、2番目の合である。
気候が穏やかで、大気に潤いのある時は、3番目の合である。
紙と墨の調和が取れているときは、4番目の合である。
ふと「書きたいな」と思えるときは、5番目の合である。

心が落ち着かず、体がだるいときは、第1に調子が悪く、1番の乖(かい)である。
意のままにならず、勢いがくじけてしまうときは、2番目の乖である。
空気が乾燥して、炎天のときは、3番目の乖である。
筆と墨がなじまないときは、4番目の乖である。
気が乗らず、手が重くて動かないのは、5番目の乖である。