ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

素人が書譜1(書譜/孫過庭)

おそらくは絶版であろう「書譜」(孫過庭)/西林昭一著(明徳出版社)から本文だけを、自分のような「素人がわかる書譜」にしてみました。
名づけて「素人が書譜」です。

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それでは孫過庭(そんかてい)先生よろしくおねがいします!
孫:よし! 一度しか言わんから、そこに座ってしっかり聞いておれ!

第1篇 王羲之を典型とする(四賢(鍾繇・張芝・王羲之・王献之)の)優劣論

そもそも、昔から今日まで、書の達人は少なからずおります。

その中において後漢の張芝(ちょうし)、鍾繇(しょうよう)の絶倫ともいえる表現、それに東晋王羲之(おうぎし)、王献之(おうけんし)が妙技さをもってたたえられる。

王羲之は「最近、いろいろと達人といわれる人の書跡を見ているけれど、鍾繇と張芝の書が抜群に良い。その他の人の書は、観るに堪えるようなものは見当たらない」と言っています。

鍾繇と張芝の死後に大名筆家といわれる達人は王羲之と王献之の親子をおいて他にない、と言っても良いでしょう。

 王羲之はさらに「自分の書を鍾繇と張芝のそれに比較すると、鍾繇には肩をならべられるだろう。ひょっとして、鍾繇を越えているかもしれないな。けれど張芝の草書にはかなわないようだ。

張芝のあの成熟な書は、池の水を墨汁にして練習をして得た、というほどのものであります。

もし私が寝食を忘れて一途に張芝ほど猛練習したとすれば、彼の草書にもひけをとらないところまで行けるでしょう」と言っている。

王羲之の楷書と草書を鍾繇の楷書、張芝の草書とをそれぞれ比較してみると、王羲之鍾繇・張芝ほどではないかもしれないな。けれど王羲之は二人の長所をくみとって、各書体に通じています。だから、日常文書をしたためたようなものでも、危なっかしいところは見えませんよ。

世間の批評家は「かの四賢は、古今に比較するものがないほどに優れている達人である。しかし今(西暦687年頃)の書芸術は古代にかなわない。

古代の書というのは飾りけがなく、まじめな質実といったものであったのに、今の書芸術は飾り気があり、華やかな華美といえる表現だからだ」と言っている。

いったい、質実とか華美といったものは、時代によって移り変わるようなものである。その昔、記号が創られたときには、もっぱらそれで言葉を表記したものだが、時代と共に書の本質的なものも、その表現も自然と移り変わり、質実なものから、華美なものへと変わってきた。

時代とともに物事が移り変わる、というのは自然の道理である。質実に古法に則(のっと)ってはいても、現代の感覚にずれず、現代風でありながらも時流の悪い影響に振り回されないことが大切である。

それは「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)として、然るのち君子」といわれるように外側に現れる優れた態度や容貌と、内側の本質的な素晴らしい人間性との調和がとれていてこそ、有徳の君子である、ということと同じである。

どうして豪華な宮殿があるのに穴型住居に住んだり、立派な車があるのに自転車に乗ることがあろうか。

さらに「王献之(子敬(しけい))が父の王羲之(逸少(いっしょう))にかなわないのは、羲之が鍾繇と張芝に及ばないようなものだ」と言っている。

私が思うに、これは大体、そうではあるけれど、まだ十分に明らかにされてはいない。

というのは鍾繇(元常(げんじょう))は楷書だけに巧妙だったし、張芝(百英(はくえい))は草書のみが精妙であった。この二人の長所を王羲之は兼ね備えている。

王羲之の草書を張芝のそれに比べると、王羲之は楷書だけ余分に備えていることになるし、鍾繇の楷書に比べれば、草書に長けている。

王羲之は二人の専門の書体には多少劣るかもしれないが、広くいろいろな書体をこなすという点では、はるかに優れている。

三人の書を総合して評価するなら、羲之が鍾繇と張芝に及ばないというわけではない。

謝安(しゃあん)はかねてから素晴らしい筆跡の手紙を書いた。そのため王献之の書を軽くみていた。

あるとき献之は我ながら上出来の手紙を謝安に出した。献之はその手紙を謝安が素晴らしいと思ってきっと大切に保管してくれると思っていた。しかし、謝安は献之の送ってきた手紙の余白に、無造作に返事を書き送り返してきたので、とても口惜しがった。

謝安は献之に「あなたの書は父の王羲之にくらべてどうですか?」と訊いたことがあった。
それに答えて献之が言うには「それはもちろん、勝(まさ)っています」と。
謝安は「世間ではとくにそうでもないという評判だよ」というと、献之は「今時の人に何がわかるんだ!」と。

献之は、このことで謝安の見る目を変えることが出来たとしても、自分が父親に勝ると言うのは、間違いではないか。
立身出世して名を馳せるというのは、子が父母はもとより祖先を尊び、後の世までも称揚することをいうのである。

孔子の弟子の曾参(そうしん)という人が「勝母」という母より勝ると名づけられた村には、不遜な名だとして、その村には入らなかった。

私が思うに献之の手筋は、父の王羲之の書法に近く、ほぼその法則は受け継いだとはいえ、おそらくは父の業を完全には継承出来ていまい。

まして、神仙について書法を授かったなどとこじつけて、父の教えを受け継ぐことを恥とするとは。

このようにして書学を大成しようすることは、慢心が邪魔して向こうを見ようとしても見えないから進歩がない。それは土塀に向かって立っているようなものである。

その後、王羲之が都へ出向こうとしたとき、出発にあたり、壁に字を書いた。献之はこっそり、その文字を拭き消して同じ場所に同じ文字を書いて、心ひそかに上出来だと思っていた。王羲之が帰ってきてその字を見て「都へ行くときには、だいぶ酔っ払っていたんだなぁ」と。献之は恥ずかしくなった。

これらの話でもわかるように、羲之を鍾繇と張芝とを比べれば、専修の一体と、兼修の諸体との優劣といった区別はあるけれど、献之が羲之に劣ることは疑いないほどはっきりしている。